2016年08月08日

百物語怪談会

 明治期の怪談会の実録集。語り手は泉鏡花、柳田國男、鏑木清方、小山内薫、と当時の第一級の文人墨客から、花柳界の名花、そして今日ではその事績の伝わらない人物にいたるまでと幅広く、その視点も多様である。

 正直なところ、読みすすめる間、一貫して怪談としてのテンションを維持し続けてくれる話ばかりではなかった。今日の我々には聞き飽きたような逸話もあるし、語り手の技量の問題もあったようだ。しかし、玉石取り混ぜた中にそれを語る者の表情が浮かんでくるような、イマジネーションを喚起してくれる活きた話し言葉の文章は、また他では得がたい独特のリアリティを備えたものともなっているようだ。
 本職の鏡花による、簡潔に完成された切れ味のいい恐怖。「上州高崎の藤守座」と場所まで挙げた上での怪談を、駅名でも告げるように淡々と並べてみせる芸能史家の語り。美術評論家によるパリ留学時の怪異譚はゴシックホラーの趣があり、陶芸家沼田一雅の妻による体験談は、上品な婦人の語り口が気味の悪さを殊更のものとしている。
 こういった、バラエティに富んだエピソードが、素の言葉によって印象深く語られるのは、今日そう体験することの出来ないものでもあり、本書の際立った個性ということになるのではなかろうか。

 また、百物語と言っても純粋に物語ばかりではなく、雑談に類するものも多く収録されており、明治時代の知識階層の怪談観などを知ることもできるのだが、中には驚くほどに古びていない視点もある。
しかし西洋の幽霊は非常に行儀が悪るい、多くが廊下に轟くような足音をさせる、棒で扉を叩いたり、梯子段をかけ下りたりする、多分肉食の故もあろう、どうも一般に乱暴です、──中略──日本の幽霊のように、提灯からぬけ出て仏壇にはい込むなんぞと謂う軽業は出来ない、人に凄味を売る商買としては五割も七割も損です
          百物語怪談会 ちくま文庫・2007年・P255〜256より引用

 きよし、とのみある不詳の人物によるこの指摘などは、ほとんどそのまま今日のハリウッド製ホラーとJホラーの比較に通用してしまうところであり、語り手の慧眼に感服すると共に、その歳月への耐久性を考えれば、「恐怖」というものの民族的文化のコアからの距離などについても考えさせられるところがある。

 雑談部分については、他にも柳田國男が自著の評価についての軽い反駁をみせていたり、友人による泉鏡花の日常エピソード開陳など、野次馬的好奇心で楽しめるところもありで、恐怖というよりはユーモアを感じさせてくれる、明治末期のある種ノスタルジックな催し物のひとつを実見する楽しみを味わうことのできるものだった。

 気分としては蚊帳を吊った部屋で読んでみたい一冊。★4つ。

2015年10月10日

綺想迷画大全

 西遊記の翻訳者としても有名な著者による、素人でも楽しめる「名画鑑賞方法」の数々をまとめた一冊。掲載誌は『歯医者さんの待合室』という、タイトルそのままな場所での読者を見込んだ雑誌なので、一章あたりの文章はごく短いものの、カラー図版の方は平均して四枚程度と多用されて、ちょっと豪華な装丁となっている。
 
 取り上げられた題材は、欧州のものではティッツィアーノ、グリューネワルト、ティントレット、ホルバイン、ブリューゲル、と、十六世紀以前の画家の、特に宗教絵画が多くを占め、一方アジアのものでは、徽宗、郎世寧、仇英、そして本邦からも若沖、さらにイスラム世界やインドにおける写本の挿絵の数々──『ラーマーヤナ』、『薔薇園』、『王書』など、実に広範な地域のものから自由な選択がなされている。
 こういった一般向けの名画鑑賞本では、十八世紀以降あたりからの西欧絵画、ことに印象派のものに重点が置かれたものが多く、またモチーフとされるものの来歴について、単純に「当時××に実在すると信じられた動物」などといった記述のみで片付けられてしまうことが少なくないが、本書では、何故実在すると考えられたのか、といった当時の人間の世界観、宇宙観まで、簡潔ながら説明してくれるので、読み手としては、より広い世界の鳥瞰図を提示されたことによる興奮を得ることができる。
 
 文章はごく柔らかく、初歩的な世界史の知識があれば、理解は充分に可能であり、こういった本を中学生時代に読んでおけば、「学ぶこと」「知識を得ること」の楽しみについて、随分と前向きな意識が獲得できたのだろうな、などとも思った。これで価格さえリーズナブルであれば文句はないのだが、まそれは求めすぎだろうか。★3つ。

2015年08月23日

怪力乱神

 論語の一節に、君子は怪力乱神を語らず、という言葉がある。
 著者によれば、怪はミステリー、力はバイオレンス、乱はエロ、神はオカルト、を意味するのだという。これらを語らないのが君子の条件だというのだが、世の中には君子よりもそうではない人間の方が圧倒的に多いわけで、その結果、中国にはこれらを語った、驚くほどに膨大な記録が残されている。
 本書は、これら「怪力乱神」三昧な、前近代における中国人の豊かなイマジネーションの世界を、著者がその該博な知識の一端を披露することで我々に覗かせてくれるガイドブックである。
 
 さて、ガイドブックであるがゆえに説明は懇切丁寧、中国史も漢文もまるで不案内な人間でも、全く迷うことなくその世界に遊ぶことが出来る。
 
 章立ては五つ。
 第一章 人体の迷宮
 第二章 霊と肉の痛み
 第三章 変身と幻獣
 第四章 性と復活の秘儀
 第五章 宇宙に吹く風

 さらにその中から見出しを拾うならば、「記憶する心臓」「首なし騎士の系譜」「荘子の隠し絵」「母胎回帰願望」「亡国の音楽」「飛行機械の夢」など、ざっと目にしただけでもこの手の怪しげな話が好きな人間ならば、期待に胸が高鳴るのものばかりなのである。そして無論、本書の内容は、その期待に真正面から応えてくれる充実したものとなっている。
 全エピソードを通じて読めば、環境へのある種の敬意と共感を備えた、前近代における中国人の世界観を見出すことができる。そしてそこからは、現代に生きる我々が思考すべき有意義な材料をも提供されるわけである。
 
 ……もっとも、私のようなただの奇談オタクは、およそ知性とは無関係な好奇心がかきたてられるばかりであったわけで、これは著者には申し訳ない気持ちで一杯なのだが、ま、そういう読み方もあり、ということで。

 澁澤龍彦の『東西不思議物語』等が好きな人にはお薦めできそうだ。★3つ半。

※リンクは、改題された文庫本「怪の漢文力」。この感想は単行本時のもの。

2015年06月21日

江戸の妖怪事件簿

 江戸時代の「怪談」を、資料を広く渉猟してまとめた一冊。
 
 「怪談」とはいうものの、それを残した江戸時代の記録者と、今日の解釈の間には少なからぬずれがある。彼らが物珍しい事実と認定したものも、我々には伝聞による誤情報、としか評価のしようのないものが少なくない。
 しかし、それでは、彼らが世界を理解することを放棄していたのか、といえば決してそうではない。
 より古い時代から築き上げられた知の体系を用いて解釈を試みるものあり、また、自身の体験に基づいた成熟した世間知から真実に迫るものあり、で、それぞれの合理主義はその解釈の中に息づいているのだ。そしてそれを知ることはすなはち、時代を支配した認識の方法というものに触れることに他ならないのだと思う。

 ……と、こう書いてしまうとなにやら、たいそうにお利巧そうになってしまうのだが、実際には江戸時代における心霊現象のインテリ的解釈は「狸が化けている」だったとかいう実例が満載で、世間話を聞く気分で読みすすめていくことのできる肩の凝らない本である。
 また、その性格上、原典は伝聞によるものの記述が大半であるため、いきおい都市伝説めいた装いをみせるエピソードが少なくないのも興趣がわく。
 例えば──不幸に見舞われて死んだ少女が「幽霊星」と呼ばれる位牌の型をした星になり、それが及ぼす災いからのがれるには「八合の餅米でつくるぼた餅」を用意しなくてはならない──などという噂話は、食べ物がらみの逃走方法まで、ほとんど現代の都市伝説にそのまま引き継がれていそうな内容を備えており、江戸時代の人々も、こういった話を面白がっていたのかと思えば、人間の心のはたらきは、時代を超えたものがあるのだな、と今更ながらに納得させられる。
 
 上記の都市伝説も含めて、江戸時代の「噂話」については豊富な実例が挙げられ、なかでもこの時代の自治体にして企業でもある「藩」が、その噂の的となったときの対応例などは、インターネットによるネガティブな情報への対処に苦慮する現代の企業に置き換えて読んでみても、案外に通じていそうなところがあって面白い。
 
 全編に渡って「怪談」という伝承を用いて、江戸時代と現代を様々な角度から対比することができる切り口を提示して見せてくれている、多彩な魅力を持つ一冊。
 
 怪談にあまり興味の無い人にも充分以上に楽しめる★3つ。

2015年06月20日

不味い!

 Blogの世界でもそうなのだが、成功した経験談というのは聞かされてもいまひとつ面白いものではない。ちょっとした不運、しまった500円落とした、くらいの不幸な話が、ちょうど親近感を覚えることができそうに思う。
 
 さて、不味い食べ物に遭遇する、というのはこの「適度な不運」に該当するのではないか? 失ったものはそれほどに大きいわけでもないのに、記憶中枢にこびりつくあのがっかり感。そういった、熱く語りたくなるような「不味い食べ物」経験は誰もが持っていることと思うが、この本はそんな不運に基づく悲憤慷慨を、心を込めて語りつくした一冊なのである。
 
 俎上に上げられているのは、たしかにあれは不味い、とうなずけるものが多い。
 ぞんざいに作られた幕の内、観光地のホテルのみすぼらしい鍋物、安いから揚げ、中身がスカスカな蟹、そーだよ、あれはいくらなんでもだよな、と誰もが自身の記憶を遡って、よくぞ言ってくれました、と快哉を叫びたくなる不味さの王道を行くラインナップなのである。
 
 しかし、それだけで終わってしまわないところが、この本の凄みだ。
 期待したのに不味かったというだけでは、あたりまえの不運でしかない。
 不味いと言われているものに敢えて挑み、しかもそれがやっぱり不味かったというところを確認してこそ男ではないか? 決然たる意志を持って、著者は捕獲者が「不味い」と警告するカラスを食べて、自身の嘔吐感と全面対決したり、悪臭を放つことで有名なカメムシの幼虫を口にして後悔のどん底に沈んだり、と食の道の人柱としての責務を果たし続ける。
 ……いや、よく考えてみると人柱というのは、人様のためになることが前提なのだが、著者の行為は誰の役にも立たない。人はカラスやカメムシの幼虫を食べなくとも生きていけるからである。
 それでは、著者は何のために食べるのか? と考えてみればこれは、もう著者以外には誰にもわからないのである。この余人に真似できない行動力には、敬意や憧憬をいだく人もいるのかもしれないが、まあ、私個人はサーカスを見ている気分になってしまったところだ。いや、やはりある種の敬意は抱くのだが(笑)
 
 「食」の世界の地雷原地図★2つ。

2015年05月22日

南の探検

 蜂須賀侯爵家の継嗣として生まれ、鳥類学者・探検家としても著名であった蜂須賀正氏によるフィリピン・ミンダナオ島探検の記録。初版は昭和18年5月。
 
 主要な記述内容は、著者によるミンダナオ島のアポ山登頂体験となっているのだが、これがビックリするほど「探検」という言葉から想起されるものそのままである。
 千古斧鉞の密林、峻険な地形、熱病の流行、そして首狩族や食人習慣の噂など、わずかに巨大な肉食獣が登場しないことを除いては、あまりに舞台装置がそろい過ぎていて、なにやら「蛮烟瘴霧」などという四文字熟語を思い出してしまう雰囲気である。こういった世界が、われわれの父親の少年期にはいまだ存在していたということ自体に、ちょっとした驚きをおぼえなくもない。
 出版された時代によるものでもあるのだろう、アジアへの雄飛を鼓吹するための彩りも見られるが、それについては思いのほか大人しく、原住民を蔑視することで、安易に読者の優越感をくすぐって教化意識を刺激するものではない。もっとも、有尾人の存在を真剣に論じていたりする件もあり、それが本当に当時の学問的水準での「謎」であったのかどうか、疑問を感じさせられたりもするのだが(笑)
 
 日本語よりも英語のほうが堪能だったと言われる著者だけに、その交友関係は国際的であり、ことに当時敵国であった米英の学者たちとの友誼と彼らへの敬意を、まるではばかることなく記しているあたりは、まあ、貴族院議長を務めた父親を持つ、華族の当主であるがゆえに可能であったことなのだろうが、なかなかに胆力の伺えるところでもある。
 あるいは、この程度の余裕が、昭和18年の社会にはいまだ存在したのだ、という風に読み取ることも可能なのかも知れない。
 
 おそらく、そう高くない年齢層でも手に取りやすいことを目指した書なのではないだろうか、文章は平易で写真・図版も多く、400頁を越えるものながら2時間もあれば読了できる。ちょっとした移動時間を読書にあててみれば、日常の瑣事への思いからほんの少し離れることが出来そうでもある。

2015年02月14日

アメリカの奇妙な話〈2〉ジャージーの悪魔

 原書は1947年の初版であるらしいから、そこに登場する言葉ではないが、内容は現代に言う都市伝説ということになるだろうか。
 巷説、奇譚の類であり、これは監訳者・西崎憲による「本書はアメリカの『遠野物語』であり『耳嚢』である」という解説が、いかにも首肯できるところだ。
 たとえば、本書の「奇妙な話」には、まずその素材自体が現代のホラー系創作物に活かされているものがある。書名となっている“ジャージーの悪魔”からして、『ジャージーデビル・プロジェクト』なるホラー映画の、文字通り主役であるし、X−Filesにもそのタイトルのエピソードがあった。また、ネイティブアメリカンの呪術信仰を語った章には、かの「マニトウ」が登場している。これに限らず、ホラー映画のモンスターの設定などに拝借されていそうな要素は、一、二にとどまらない。
 さらに、アメリカ幻想文学の名作に通じる匂いを持つ怪談も散見し、これは、「アメリカの怪談」の民俗的な原型として、かの国の幻想文学者らが創作時に抱いていたイメージの一部に、触れることができるということだ。
 
 残念ながら、ホラーがらみのエピソードを記した部分は全体の1/5程度でしかないが、それ以外のアメリカ人らしいホラ話や、奇妙な生物の噂、歴史奇譚にも興味深いものが多い。
 ちなみに、本書は原書を抄訳、上下二冊に分冊されているもののうち下巻にあたるものなのだが、タイトルに引かれてこちらのみを購入していたのだが、読み進めるにあたっての不都合はなかった。★2つ。(一応リンクを張ってはおくものの、実は絶版にて新刊書店での入手は不可能なようだ。関心を持たれたむきは古書店をあたられたし)

2015年01月04日

オオカミの護符

 関東地方における「オイヌさま」への民間信仰にスポットをあて、そこを入り口として、今は失われつつある農民の生活を追った一冊。

 東急田園都市線の沿線、瀟洒な町並みの新興住宅地に、今も残る「オイヌさま」信仰。と言って、怪しげなカルトなどではなく、これは、中世に始まる山岳信仰を、近世から現代への時間の中で、生活に密着させたかたちで柔らかく変容させた、信仰の姿なのだ。 
 たとえばここで語られる「御嶽講」である。
 その機能を見れば宗教的なグループというよりは生活互助組織の性格が強い。あえて現代の他の組織に擬するなら「町内会」が一番近いような気がする。しかし、それでありながら、その集団の連帯意識を保障するのは、畏敬の念を払う共通の対象を持つことであり、それに伴う儀式の維持が大きな意味を持っているのだ。
 こういった宗教的グループの社会的機能は、もちろん、アカデミズムによって十分に研究されたものなのだろうが、しかし、中世に由来するそれが、現代の首都圏で、尚、命脈を保っているということには新鮮な驚きがある。
 さらに驚き、というならば、本書で語られる現存する「太占」の事例だろう。
 鹿の肩胛骨を焼き、そこに発生するヒビから翌年の作物の出来柄、天候気象を読みとるという、これは占術としても最も古い歴史を持つものであり、それを京王線沿線の専業農家の一老農夫がやってのける、というのは、なんというか、我が国の歴史の厚み、とでも言うものを見る心地がする。
 
 ただし、著者の視点自体は、やや古の、名も無き人々の知恵というものへの手放しな賛美に感じられるものが私にはあった。古の生活のネガティブな──いっそ陰惨に近い側面についても、もう少し追求があっても良いのではないか、そんな感想は持った。

 そういった、著者の一種「進歩的」なスタンスゆえに個人的には共感部分ばかりの読書体験ではなかったのだが、一冊の本としては、わくわくと楽しめるものであったことは間違いない。★2つ半。

2014年12月30日

怖い絵 死と乙女篇

 シリーズ初巻の『怖い絵』は単行本で入手したが、その続編は、立ち読みした限りでは、どうもパワーダウンしているように感じたため購入を控えていた。しかし、文庫本化されたとあれば、よほど躊躇する理由もない。

 ましかし、パワーダウンという印象は一読後も、やはり払拭できなかった(苦笑)
 初巻に登場した、絵そのものが圧倒的に怖いゴヤの作品などに比較しては、本書で取り上げられた諸作品は、その背景を説明されるとたしかに嫌な歴史を背負っていたりするものの、観ただけで胸が悪くなるようなところはない。
 そのあたりの一歩引いたところにある影は「静かな恐怖」と表現できそうな気もするものの、単に著者の思い込みが混じってないか? と見える解説もあって、やはり初巻のセレクションには及ばないように感じられるのである。
 
 その中でストレートに「怖い」があったのは、凍てつくような荒涼とした景色の中で、赤子に苛まれる母親の姿を描いた、セガンティーニの『悪しき母たち』
 シーレの『死と乙女』も、横たわる二人の人物に与えられた暗い色彩が、さながらに精神の朽ちる色を思わせる不安をかきたてられるものだ。
 しかし、本書中のベストはアンソールの『仮面にかこまれた自画像』だろう。
 暖色系の色彩をメインにした絵でありながら、それがひどく、寒々しく空虚なものを感じさせられる。こういう絵を描いてしまう画家の心境というのはどのようなものだったのか。否応無く想像させられれば、また怖い。これは愛知県小牧市のメナード美術館に収蔵品なのだとか。機会があればぜひ実物を……とは思うのだが、機会というのは作らなければすぐに10年くらい経ってしまうものではあるが。
 
 尚、巻末の村上隆の解説は、怖い、というより、すごく変だ(苦笑) ★2つ。

2014年10月25日

漢字の魔力 漢字の国のアリス

 信仰の対象として、あるいは呪術的象徴として漢字が用いられてきた事例を、中国史のあちらこちらから拾い集め、文字なるものに中国人が託してきた想像力に考察を加えた、漢字の文化史。 
福を招き、魔を除く。新しい時代の到来を告げ、コカ・コーラを「可口可楽」と絶妙に書き表す。この、融通無碍で摩訶不思議な漢字の世界にようこそ。多彩な資料を渉猟する著者がガイドする、文字が織りなすワンダーランド。
                               本書裏表紙 内容紹介より

全9章
第一章 辞書にない漢字
第二章 文字の呪力
第三章 名前の秘密
第四章 漢字が語る未来
第五章 怪物のいない世界地図
第六章 漢字の博物学
第七章 絵のような漢字と漢字のような絵
第八章 浮遊する文字──漢字のトポグラフィー
第九章 漢字が創る宇宙
 
 西洋におけるオカルティズムが、文字の持つ力への少なからぬ関心に由来するように、中国においても、万象をひとつの象徴の中に表現できる「漢字」には、現代人の考える機能的な記号、という以上の意味が与えられてきたようだ。
 史記における司馬遷の避諱から、現代中国のネットで用いられる顔文字の各種まで、それらの実例を広いフィールドから収集して述している本書の内容は、学術的云々ではなく、軽く、そして決して深かろうはずのない私の知的好奇心にも、面倒見よく応えてくれるものだった。
 
 関心をひかれた記述は多いが、ことに漢字が、部首や旁を自在に組み合わせ、時には積極的に創造することで、人間の想像力を相当にトレースしうる機能を獲得していることと、反面、文字自体が根本に意味性を持つがゆえに、表音文字で綴られた西欧のナンセンス詩といったもの(ここでは『不思議の国のアリス』から例が引かれる)を翻訳し得ないという、一種東西文化のフォーマットの異なりが見える第七章などは、ふむふむ、とうなずくことしきりだった。
 さらに、「絵」との境界線を曖昧なものとすることで、そこにまた意味を呑み込む、漢字という素材の奇妙な融通性や、権力者によって支配の道具として重用された漢字の歴史、そこにこめられた呪術的意味、文字によって未来を占う測字の技法など、単純に東洋的オカルティズムの事典としても楽しめる。もちろん、その際にも、大学で教鞭をとる著者によるものだけに、史実と伝承を混同するが如き乱雑な記述がないので、安心して読むことができる。
 
 瑕疵を挙げるならば、本題とは必ずしもつながらない部分で、人気のあった漫画の話題を持ち出すなど、なんだか私に近い世代の学者に時々みられる、「あんまり格好良くない庶民性」がのぞくところだろうか。巻末の著者近影も、ちょっとやりすぎじゃないかと思うのだが、まあ、それは本そのものの価値とは無関係ではあるだろうが(苦笑)
 
 高校生以上の若者には、中国の文化史に関心を持つきっかけとなりそうなお薦めできる一冊。もちろん、私と同年輩以上の方々にもお薦め。★2つ半。

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