2016年08月06日

戦争指揮官リンカーン―アメリカ大統領の戦争

 南北戦争を「アメリカの戦争」の原型を確立したものとして、各種の事実を指摘し、その経過と、戦争指導者としての大統領、リンカーンの姿にスポットをあてた一冊。
 
 ゲティスバーグなどの有名な戦闘や、そこで取られた戦術について語ったものはこれまでにも多くあったものの、本書の特徴はまず、南北戦争において初めて多用された近代的通信システムである「モールス電信」を大きく取り上げているところだろう。
 戦争の大原則である「戦力の集中」には、分散された部隊相互の連絡機能の向上が必須である。小部隊同士の小競り合いから主力による決戦へと拡大していったゲティスバーグの戦いにおいて、主戦場から離れていた主力部隊を、電信による迅速な連絡によって戦闘に参加させることに成功した勝利者、北軍側の実例を詳述して、この戦争の近代戦としての様相を明確にしている。
 さらに、電信において交わされたリンカーンと将軍たちとの文章を検討して、軍事的素人であったリンカーンが、四苦八苦しながら軍事的専門家をコントロールする、戦争指導体制の未完成な時代の「総司令官たる大統領」の姿が浮き彫りにされている。
 そして同時にその過程で見えてくるのは、私たちがイメージする「奴隷解放の父」とは少々異なる、軍事的な、あるいは政治的な勝利のために、必要な戦略を冷徹に計算し、命令した、したたかなリアリストとしてのリンカーンの横顔だ。
 
 著者の主張する、この戦争で生まれた様々なシステムやスタイルが、現代に引き継がれる「アメリカの戦争」の原型であるという指摘については、それなりに説得力を感じさせられるところもあるものの、同時に近代戦の普遍的な手段であり、必ずしもアメリカに固有のこととは考えにくい部分も少なくない。そのあたりのより踏み込んだ検討は、読者の意識に委ねられるところとなっているようだ。
 
 電信という技術から観た南北戦争史。★2つ。

2016年04月19日

上杉謙信の夢と野望

 上杉謙信という戦国大名について世間一般での評価は、同時代屈指の軍事的才能を持ちながら、人の利欲に疎く、名分にこだわって、ついに覇を打ち立てることなく病に斃れた悲運の武人、というところではないだろうか。
 
 しかし、そもそも「名分」にこだわる、ということは意味のないことなのか。
 本書では、「名分」の由来するもの──室町幕府という旧弊・形骸化したと見られていた統治機構が、実は諸大名に対し、一定の強制力を持つ支配のシステムとして、いまだ、高い機能を保持していたことを各種の事例から証明している。
 このシステムの再生を、謙信とその二人の共謀者が試みた経緯の痕跡を資料から拾い、その上で“義戦”として解釈される、一見、戦略性に乏しいと見られた謙信の征戦の背景に、意外にスケールの大きな戦略構想が存在したことを論じている。これは、ともすれば政治政略に蒙かったとされる従来の謙信像を、一部塗り替えるものでもあるだろう。もっとも、精兵を率い、圧倒的な軍才によって多くの戦捷を得ながら、その大半が成果に結びつかなかったというのも事実であり、この大名が、政治家としては同時代の北条氏康、武田信玄などに比較しては、やはり一歩譲る資質しか持っていなかった、という評価は覆し得ないところではあるが。

 著者がアカデミズムに属する人ではないためもあるだろうか、「戦略家としての上杉謙信」の再評価という主題のみならず、本書では「生涯不犯」などという、世に喧伝されるこの神将の伝説の数々にも独自の論考が加えられ、歴史愛好家の好奇心を満たしてくれる内容がある。全体を通じては謙信ファンの姿勢を感じられるものの、謙信が織田家の宿将を敗走させたと伝えられる「手取川の合戦」の過大評価を戒めるなど、信者的軽薄さは無い。
 
 謙信その人のこともだが、室町幕府の存在を見直すという、こういう視点の戦国歴史入門書は、ちょっと珍しいのではないか。一読の価値はありそうに思う。★2つ。

2016年04月18日

異端カタリ派と転生

 邦語のカタリ派関連書籍としては、岩波書店から出ている「異端カタリ派の研究―中世南フランスの歴史と信仰」が古典的名作としてあるわけだが、これは学術書でもあり、かつ、古書市場に常時流通しているわけでもないようだ。私のような、ただの歴史好きの一般人が読んで楽しむということならば、この「異端カタリ派と転生」が個人的な一推しとなる。
 
 カタリ派に大きな影響を与えたとされるグノーシス主義、およびキリスト教哲学を常に脅かし続けた二元論の代表的宗教としてのマニ教の説明に1章を割いて、地中海世界の思想的潮流からカタリ派成立への経緯を説明し、さらに、その思想にのっとって定義された宗教的生活、戒律の実際、国家間の争闘の場におけるカタリ派の存在とその消長についてなど、1冊でカタリ派の概略と歴史が理解できる入門書として内容を備えている。しかも著者自身が歴史学者ではなく文学者であるところから、難解な専門用語は登場せず、一般人でもとりつきやすいことは格別なのである。
 
 しかし、著者の想定以上に一般人としてもダメな読者である私が、最も関心を魅かれたのは、第7章、および終章である。
 ここではカタリ派が西欧の偽史、オカルティズムにおいて果たした役割について言及されているのだが、これがなんとも怪しげで楽しい(笑) 有名なアーサー王の「聖杯伝説」から、イエスの血脈の伝承、さらにカタリ派最後の拠点であった、モンセギュールの山塞跡に、ヒトラー率いるナチス・ドイツが並ならぬ拘りをみせていたという浮説などは、欧米の伝奇小説を読む上での基礎知識として欠かせない話題をフォローしていると言えそうだ。※1
 やはり、ナチスと異端とオカルトが出てこなくては、伝奇小説がヨーロッパを舞台にする意味はないのではないか(笑)
 
 とはいえ、この本の真価は、二元論というキリスト教世界における決定的な異端思想に焦点をあてたところにあるのだろう。ヨーロッパ世界の深層に思索を巡らせてみる知的意思をお持ちの方にはお薦め。そうではない、私と堕落をともにしたい方々にも、それはそれで充分に楽しめるのでお薦め。★3つ半。

※1 
無論、これらの伝承は、カタリ派がどのように語られ、どのように見られたのか、という文脈の中で語られているのであり、事実としての認定を受けているわけではない。

2015年09月22日

久生十蘭「従軍日記」

 戦前から戦後にかけての探偵小説、時代小説界の巨人、久生十蘭による、昭和18年の台湾、フィリピン、インドネシア方面への従軍日記。
 
 従軍日記といっても、十蘭の場合は、一兵卒として召集されて戦塵の中に日々を過ごしたという話ではなく、海軍報道班員として前線の様子を伝えるために派遣されたものである。
 当時既に作家としての名声を獲得していた十蘭は、行く先々で歓待を受けている。
 その食卓には、スキヤキ、刺身、天麩羅、が並び、アルコール類も存分に楽しみ、夜は夜で連日の賭け麻雀か、悪所へ通いつめる日々であり、これはもう「自堕落」という言葉が脳裏をよぎってしまうような生活である。
 旅程も最後に近づけば、空襲に晒される前線の町での逗留も経験し、防空壕内での不安についての記述など「従軍日記」らしくはなるものの、これも翌年以降の本土空襲における悲惨な記録の数々と比較すると、読むものの胸をうつというところにまでは至らない。
 
 しかし、そういった俗な日常の描写からは、卓越した文体と技巧で知られるこの作家の、予想外の人間らしい本音がのぞくところがある。それを、本書の解説で橋本治は意外なものとしているし、十蘭については「好み」というのもおこがましい程にしかその作品世界を理解していない私にとってもまた、興味深いところではあった。
 ……といっても、十蘭の日記、と思って読まないと、若い世代ならば少々違和感を覚えるかも、というのが私の正直な感想ではあるが(笑)
 
 十蘭の作品が好きな人には勿論、てらいの無い見聞を記しているところは、大戦中の事情を知る資料としても面白い。★2つ半。

2015年06月22日

奇想科学の冒険―近代日本を騒がせた夢想家たち

 幕末から明治最末期までの8名の「夢想家」たちを紹介する一冊。

 全8章
 第1章 それでも地球は動じない
 第2章 「進歩」の発見、「啓蒙」の歓び 
 第3章 進化論は帝国主義を賛美するか
 第4章 人権を乗せた軍艦
 第5章 ユートピアの発明家
 第6章 森鴎外が畏れたメスメリスト
 第7章 ロボットは聖君子の夢をみるか
 第8章 詐欺に触発された発明

 彼らの大半は知識人に分類される経歴と学識の持ち主であり、それを身につけた目的も、この時代においては圧倒的だった欧米諸国の先進性を認めたが故のものなのだが、それを彼らの流儀で用いていく姿は、現代の我々の目から見ればどこかしら踏み外し感漂うものとなっている。
 といっても、自然科学系の学問を選んだ者はそれなりの研究成果も収めており、また言論と思想を選択した者たちも、時代の空気を決定付けたとさえ言える支持を集めている場合もありで、単純に「トンデモ」系と認定することはできそうにないのだが、それでもなお、夢想家たちの1人である渋江保(渋江抽斎の息子である)に対する鴎外の距離のとり方のエピソードなどを見てみれば、同時代でさえ一部の知性には慎重に接するべき対象、と見做されていた可能性は否定できないようだ。
 
 さて、それでは、そういった踏み外し感を生み出した最大の理由である、彼らの過剰な情熱を支えたものは何なのか、そして、それにもかかわらず彼らが排斥ではなく、むしろ一定の支持者を得ることが出来たのはどうしてなのだろうか、という問いが向けられたところに浮かび上がってくるのは、どうやら「明治」という時代そのものであるようだ。
 明治は日本という国家の成長と膨張の時代であり、その初期において、国家と国民の願望が、相当の部分においてシンクロしえた稀有の時代でもある。彼らの説くところを追っていけば、無邪気で奔放な「願望」と現実とのねじれていく位置関係を通じて、あの時代の空気らしきものに触れることができるように思う。……いや、そういうところはスルーして物見高さのみでチェックしても楽しい本ではあるけれど。
 
 『坂の上の雲』に書かれなかった、あるいは書かれていた明治の姿。★2つ。

2015年06月15日

黄金の島 ジパング伝説

 昨日に引き続き、今日の本もマルコ・ポーロが話題。
 彼が語った黄金の島「ジパング」の伝説は有名だが、この本はイスラム社会、ヨーロッパに伝わった産金国としての日本像と、その伝説に憑かれて黄金を求めた人たちの姿を史書に追ったもの。

 素人にはわからない高度に学術的な視点や専門用語はないので、すらすらと読める。イスラム社会に伝わる謎の黄金島「ワクワク」の名前は、倭国が広東方言で訛ったものに由来する、などというトリビアに驚きながらも、16世紀東アジアにおける、ポルトガルとオランダの覇権抗争についても勉強できたりと、一応テーマこそ据えてあるものの、むしろ著者の雑談に聞き入るような、肩の凝らない楽しみ方のできる1冊だ。
 それにしても、17世紀に入ってさえ極東アジアは、欧米人にとってはもちろん、日本人にとってさえ荒唐無稽な「探検」の対象地域であったというのは、間宮海峡の発見が19世紀であることを考えれば当然かもしれないが、改めて知ってみるとちょっと意外だ。うーむ、我々はたしかに辺境の化外の民だったわけだな。

 アートディンクの「アトラス」なんぞにはまった経験のある人にはお薦め。★2つ半

2015年06月04日

剣豪伝説

 宮本武蔵、佐々木小次郎、伊藤一刀斎、柳生一族、上泉伊勢守、千葉周作、といった有名剣豪の、意外にわからないところの多い生涯、事績、その実力などについて、史書や現在に残る流派の伝承を縦横に調べ上げ、さらに直木三十五、山岡荘八、柴田錬三郎、山田風太郎などの諸作品からの博引によって、フィクションの世界で彼らがどのように描かれたのかを語りつくす、文字通り一冊まるごと剣豪の本。
 
 といっても著者は研究者ではなく作家であるため、人物個々に章立てをしてスペックを記述するような解説本の体裁をとっているわけではない。一応文章ごとの主役はあるものの、そこから話がわき道にそれ、あるいは過去に遡りしてしまう自由なエッセイ風のスタイルで、のんびりと雑談につきあうようにして薀蓄を楽しむことができるのである。
 そして、この雑談は、ときに熱が入りすぎて、まるまる特定作家の特定作品への検証で終わってしまっている章などもあり、なにやらその作品の巻末に付された解説を読まされているような気にならなくもない(笑)、ま、しかし、そのあたりの脱線具合もまた、縁側で寝転んで読むのに心地よい流れであったりはするのだが。
 
 剣豪と言う日本独自の「豪傑」であり「英雄」であり「妖人」でもあるという奇妙な求道者についての知識は、彼らが大いに活躍した、40年前までの娯楽作品の世界に親しむための「基礎教養」である。私たちの想像以上に豊かな、その世界の娯楽としての奥行きを理解すための手引き書として、本書には価値がありそうに思う。★2つ。

2015年05月24日

西洋中世奇譚集成 東方の驚異

 中世欧州において民衆にまで広く信じられた「東方世界」を伝える二つの手紙、『アレクサンドロス大王からアリストテレス宛の手紙』と『司祭ヨハネの手紙』、さらに後者はラテン語と古フランス語の二種類のバージョンを翻訳したものが収録されている。
 
 情報伝達手段が未発達な時代、欧州の一般民衆にとっての非欧州世界というのは文字通り「魔境」だった。聖なる福音の届かない土地に跋扈するのは、醜悪な怪物と身の毛もよだつ風習を持つ野蛮人たちである。しかし、そこは同時に信じがたい不思議な力を備えた宝物が産する世界でもあるという、言ってみれば、現在のファンタジー作品の舞台の原型となる世界が創造されていたわけである。そして、これらの幻想を仮託するべき土地として大いにもてはやされたのが、東方──インドだった。
 インドと言っても現在の地理的概念とは一致せず、中世のそれは漠然と東方世界というに等しいのだが、イスラム勢力の台頭によってこの地域との直接的な連絡が遮断されると、事実との乖離はいっそう広がり、その一方でかすかにもたらされる情報は、希望に基づいて聞き手の恣意的な変更を加えられる。それら、事実と幻想とがない交ぜになった東方世界像というのが、本書で記されているものだ。
 
 まあ、正直、わくわくと胸躍る幻想世界が目の前に広がる、というものではない。
 空想とはいえ一種の地誌と遠征記に近いものなのだが、単純に桁外れの量を記録することによる「凄さ」の表現や、非現実的な怪物の列挙が過ぎる。そのくせ個々の記述はごく簡単に羅列するスタイルなので、ある程度読み進めてみると、何が書かれていても、へーそうなの、としか反応できなくなるところがある。同様に浅い記述でも『山海経』の如く過剰なほどのボリュームがあれば、それはそれで図鑑的面白みも出てくるのだが、どうもそこのところでも今ひとつ、なのである。
 もっとも、それは私の浅学に原因があることは間違いなく、キリスト教の知識があれば、登場する怪物にもひとつひとつ象徴的な意味を見出したり、それを民衆に流布させた、教会と世俗権力の思惑などにも気づくことがあるのかも知れないので、これは猫に小判、ということなのだろう。
 
 尚、注釈は詳細かつ平易なものであるし、読んでいくのに難渋する堅苦しい文章でもなく、現代風の修辞を伴わない描写には独特の味わいというものもある。また、幻想文学に登場する怪物の、意外な原型的姿を確認できる楽しみはありそうだ。
 とりあえず、「アレキサンダー・ロマンス」や「プレスター・ジョン伝説」などに関心を持ったことのある人は、手にとってみても良いかも。★2つ。

2015年01月05日

歴史の愉しみ方 忍者・合戦・幕末史に学ぶ

 映画化もされた『武士の家計簿』の著者による、史学の面白さを紹介した一冊。

 文芸春秋や読売新聞などへ発表された著者のエッセイをまとめて一冊にしたもの。
 一貫したテーマを学者の立場から追求したものではないので、読み応えという点ではライトであるし、なんらかの史実について、それなりに深い知識が得られるというものでもない。
 昨今のポッと出の新書では珍しくないが、中公新書のような歴史のあるレーベルでは、このお手軽さは珍しい部類だろう。
 
 しかし、専門誌ではなく、特に歴史好きでさえない一般の読者を念頭においた内容は、いかにも学者らしい茫洋としたものを感じさせられるユーモアに満たされており、その一方で真摯な知識への探究心が伝わってくる心地の良いものだ。
 また、忍者の実態や、戦国期最強と賛せられる薩摩・島津家の強さの秘密を探るなど、生真面目な学者は語ってくれそうにない史実に焦点をあて、それを史書の中から拾い上げて語るなど、少年が抱きそうな素朴な好奇心を、現実に満たしてくれる学問というものの面白さを教えてくれる、つまりは「学ぶこと」への誘いとなるものなのである。
 
 前述したように、内容はずっしりとくるものではないが、こういう本は小学校高学年から中学生などに読んでもらいたいものだ。いやいや、私のように義務教育を30年以上昔に終えた人間が手にとっても、それなりに触発されるものもある。学者による好著のひとつの例かと思う。★2つ。

2014年11月24日

中世を道から読む

 政治とは道だ、とはかって土建業を持ってこの国を改造しようとした政治家の言葉だが、事実、道は巨大な政治権力の存在があってこそ初めて整備がなされうる、古代以来、最も重要な「国家的事業」のひとつだったわけである。
 本書は、主に戦国期、後北条氏の支配下にあった関東地方を中心として、当時の道の実様と交通事情について、多様な記録をもとにして述したものである。
 
 記述は多岐に渡り、現在とは異なる当時の主要街道と、交通の要所となる地、そして常にネックとなる渡河点の問題について、と、地味ではあるが歴史小説の背景を理解するにも役立つ情報が多い。
 また、峠のような難所の通行を管理する特権を有するのが、必ずしもその地の大豪族ではなく、非農耕民との結びつきを想像できる特定の氏族であるという指摘は興味深い。できればこれらの非農耕民が持つ、信仰や貴種への由来伝承などにも踏み込んだ言及があれば、より個人的な好奇心にかなうところだったのだが、まあ、些か本題からは外れてしまうのでやむを得ないか、とも思うのだが。
 ただ、限られた紙数で幅広い題材を扱ったためだろう、全体的にやや散漫で、各章ごとの内容の関連性が希薄に感じられてしまうところもあり、道路整備事業の実態──例えば技術的なもの、あるいは後北条氏における作事奉行の任命制度、予算の捻出方法などについての記述が無かったのは残念だった。
 
 文章は極めて平易で、引用文献は多いものの雑談的エピソードの挿入もあり、そう、根を詰めずとも読みやすい一冊となっているように思う。★2つ。